こんにちは、D.Cozieです。
どうしたら人が育つのかというテーマについて考えてみます。
人が育つのは、こころが育つということ。
人が育つとはどういうことでしょうか。
それを考えるのが、こころの学問の役割だと私は思っています。
それって教育の仕事ではないかという人もいます。
もちろん教育はその字のまま「教え育てる」。
教育は育てるのが仕事でもあります。
でも「こころを育てる」となると「教えられない」ことも出てきます。
教えられない、こころの成長。
たとえば「他人を傷つけてはいけない」と教えることはできます。
けれども、
「私は親に虐待を受けて育ってきた。親は私を傷つけている」
「いじめはいけないというけど。大人だってほかの人をいじめてるじゃないか」
こんな問いに対して「これは絶対に正しいんだ」
そう教えても、通じない場合があります。
- 虐待を受けた人や、いじめを受けた人。
- 深く悩まなければいけない人生を送っている人。
そういった人たちは「正しいこと」ばかりいう人たちの嘘をすぐに見抜きます。
「こころを育てる」ときは、正しいことを教えるわけではありません。
ものごとには正しいことも悪いことも半分半分。
絶対に正しいことも、絶対に悪いこともない。
それをしっかりと悩みぬいて、
「やっぱり半分半分だな」と理解できたとき、
こころの成長があります。
カウンセリングをするときに、とても大事にしていること。
では虐待を受けたり、いじめを受けた人。
こころに深い傷を負ったりしている人。
ほかにも、人間なんか信じられないと思うような人生を送ってきた人。
そんな人たちに「人生には良いことがあるよ」と教えても。
たぶん、こころを開いてくれません。
できることがあるとすれば、
「ただ、こころに寄り添って、そばにいること」
これは実際にやってみるとわかるのですが、
とても難しいです。
そばにいたとしても、どうしても「何とかしなくては」と動いてしまう。
そうすると相手のこころは、こちらから気持ちが離れていきます。
もしそばにしばらくいたとしても、深い傷を負った人のなかには、
自分に近づいてくる人に激しい思いや行動をぶつけてくる場合があります。
もしかしたら、その激しさのあまり、そばにいる人も傷つくかもしれない。
それでも、こころに寄り添えるか。
これは「こうしたらいい」と正しいことを教えるのとは、
まったく違うアプローチです。
激しい思いをぶつけても、相手は自分に寄り添ってくれる。
それが本当に体験できたとき、その傷を負った人は相手を信頼し始めます。
激しい言動も、その人にとっては「ほかには変えようがない必死の表現」
だったのかもしれない。
半分半分でこころの成長を願う。
正しいことも悪いことも半分半分です。
激しい言動の危険性もしっかりと対処しつつも、抱えている悩みに寄り添う。
こころの成長を願う。
それが一番大切なことかもしれません。